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うだぐだ。日記にもならない。
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人の死なんてさ、よほど身近な人でないと、実感なんてわかないんだよね。
棺桶にいる肉塊はまるで知らない人のよう、穏やかな顔は死なんてまだまだ遠いんだってことばかり思わせて、結局あまり悲しみなんて思わない。ただ、それからいくらか経って、その誰かのいなくなった生活に慣れていって、それで初めて「もうあの人はいないんだ」と実感するんじゃないかな。
そう、だから人の死について感じるのは悲しみではなく、寂しさ。
もう会えない人を思い、失ったものを思い、残された自分に寂しさを感じる。


葬式に出るまでの僕はいたって不謹慎。げらげら笑って人が死んだなんてどこに吹く風、まったくもって別世界の話だ。
けれども、葬式の場で、その死んだ誰かが、死にました、死にました、もう会えません、どうか安らかに、なんて話を聞いたら、否が応でも実感するでしょう? もういないんだ、もう会えないんだ、僕は取り残されてしまったんだ、って。その時初めて涙を流す。ぼろぼろと、悲しいと感じるより先に涙が出る。
昔、人の死に涙を流すのは取り残された自分がかわいそうだからだ、というのを聞いたことがある。失ったことが悲しくて、かわいそう。ずいぶんと批判的なフレーズだったけど、僕はそれでいいと思う。その死に悲しむことができるくらい誰かを大切に思えて、大切に思えるほどその誰かからたくさんのものをもらったんだろう。それはとても幸せなことだ。
人はいつか死ぬ。確かに死は悲しいことかもしれないけれど、それに絶望する必要なんて、どこにもないと思う。
なぜなら人はいつか死ぬように、今もこの瞬間、どこか身近なところで誰かが生まれてきている。産声が聞こえるはずだ。
それだけで、とても幸せなことなんじゃないかな。


なんかこういう二つの微妙に違う考え方みたいなのが好き。
どちらが悪いとかいいとか判別できないけれど、なんとなく違う。どっちも優しかったり残酷だったり。
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